DesCartes MyBookのホーム人名索引数学者の伝記

ルネ デカルト (Rene DesCartes)

1596.3.31-1650.2.11.
 フランス、トゥレーヌ州、ラ・エー(現在ではデカルトと呼ばれている)に生まれ、スウェーデン、ストックホルムに死す。


この写真は Mathematical Intelligencer, 18-4(1996) の切手のコーナーから採録したもの。

 哲学・数学・物理学者。ブルターニュ公国の首都レンヌの議会の顧問であったジョアシャン・デカルトの3男として生まれる。 若いときから体が弱く、朝は11時までベッドに居る習慣があったが、スウェーデン女王の命令で朝の5時から寒い宮廷に出仕し、風邪をひき、こじらせて死ぬ。デカルト的二元論は強い影響力を持ち、後のライプニッツの単子論と対立。ヨーロッパ思想界を二分。オランダに長く住んだため、デカルト主義者のオランダ人が多い。
 8才のときから8年間、アンジューのイエズス会の王立学院で、古典、論理学、アリストテレスを学んだが分かったことは自分がいかに何も知らないかであり、ただクラヴィウスの書で学んだ数学だけには納得していたという。この学院の寄宿生活の中で11時までベッドにいることを許されていたのが習慣になったらしい。
 ポアチエ大学で法律の学位を得てのち(1616)、ヨーロッパを遍歴し、いくつかの軍にも属し、オランダではI.ベークマンと出会い、本格的に数学と力学を学ぶ。1623年一旦パリに戻りメルセンヌとの交流が始まる。イタリアから帰って(1625)からも落ち着き先を探していたが、1628年からはオランダに定住し、ホイヘンス、ミドルジュ、メルセンヌ、ファン・スホーテンらと交流。
 1649年、スウェーデン女王の招きに応じてストックホルムに行く。死を招くほどの生活環境の変化を受け入れた理由はよく分からない。公然と表明していないがガリレオの見解と同じであることが知られて、プロテスタントの神学者からの迫害があリ、それを避けるためとも言われる。死後16年を経て、フランス政府の要請により、遺骨はパリに運ばれサン・ジュヌヴィエーヴ教会(現在はパンテオン)に埋葬された。

文献
  1. 『幾何学』(La Geometrie), 『方法序説』(Discours de la methode)の付録、Paris,1637. D.E.スミスM.L.ラタンによる英訳(初版の複製がついている)が1925年にThe Open Court出版社から発行され、1954年にDover出版社からリプリントが出ている。日本語訳には、デカルト著作集1『幾何学、方法序説の試論』(原亨吉訳、白水社)がある。[I.1-2, 5], [II.1], [IV.3]
  2. 『デカルト著作集』白水社
  3. 『デカルト』(世界の名著22)中央公論社
  4. 『方法序説』
  5. 『精神指導の規則』岩波文庫
  6. 『哲学の原理』岩波文庫
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