MyBookへ.
『数学の作法』のホーム。
『数学の作法』 まえがきの第1版
学習とは,学び習うことであり,真似まねび倣ならうことでもある.
人が他の動物よりすぐれていることがあるとすれば,先人の知恵を学ぶことができるからである.
しかし,先人はあまりにも多く,中には矛盾する知恵もあれば,重複しつつ,微妙にずれている知恵も少なくない.
であれば,選ばねばならない.
知恵を選ぶこともまた大変な作業である.
先人たちはまた,その選び方もまた知恵として遺してくれている.それが作法である.
もちろん作法は絶対ではない.
しかし,作法を守れば,何かしら初見の問題にも類推が効く.いわば,鼻が利くようになる.
危険を感じやすくなると言ってもよい.
残念ながら,作法を学びさえすれば,数学の学習も研究も,順調に,支障なく進むというものではない.
多くの大学で教鞭をとる人々と学生について話し合う機会があり,さまざまなことが話題になった.
学生たちの中に,大学で学ぶ状況にない,というか準備ができていない,つまり,そのまま大学で供給されるカリキュラムをこなしていったとしても学習効果も上がらないだろうし,ましてや研究に進めそうもない人たちが少なからずいるということを確認し合うということがある.
このままでは,正規の大学教育を受けるための予備教育が必要となるだろうが,そういうものがあったとして,そこではどういうことを教えるべきだろうか? 話題は尽きない.
結論を一言で言えば,学生に「学びの作法」ができていないということである.
第2次大戦後の復興の機運に満ちていた「詰め込み教育」の時代には,多くの内容が教えられるうち,何とはなしにその種の「作法」の伝授が行われていたが,
近年の「ゆとり教育」においては,却って作法を教えるようなゆとりを持てないでいる.
一座の中におられた編集者の強い薦めもあって,「学びの作法」というシリーズを刊行するという話になった.
専門教科を大学で学ぶことができるように,各分野の「学びの作法」をまとめておくといいだろうということである.
しかし,このシリーズに過大な期待は抱かないで欲しい.
シリーズが目的とするのは,読者を各専門分野の入り口に立たせ,そっと肩を押して,門をくぐって中に一歩を進めてもらうことだけである.
本書(数学篇)の場合,たとえば[5]などのように数学者になるための心得を述べてはいない.
あくまで,(自然科学とは限らない)サイエンスを学ぼうする学生に,大学に入るまでに知っていて欲しい,数学に関する基本的知識,概念,技能がどういうものであるかを示すだけである.
読者はその内容があまりにも基本的であることに驚くかも知れない.
学問の門に入り,その後で数学者になりたければなればよい.物理学者になりたければそれもよい.
工学者になるのも経済学者になるのも,それらの科学を現在の社会に適用する実務者になるのもよし,またそれらを教える教育者になるのもいいだろう.
門に入れば,すべてはそれぞれの人の努力と創意工夫に掛かっている.
著者は子供の頃,作法というものが嫌いだった.
自分を縛るもののように感じられて嫌いだった.
すべてを自分で決めるというのは理想ではあり,そうできるだけの能力があればそうするのが良いのかもしれない.
しかしそれは実用的でなく,実際的でなく,何より不可能である.
ニュートンでさえ「巨人の肩に乗って」遠くが見えるようになるのである.
人は知識を蓄え,積み重ね,伝達し,利用する.
そうすることで,はじめて人は生物界の頂点にいることができる.
砂山を駆け上がることは難しい.所々にでも踏みしめることのできる足場が必要である.
それが「作法」というものだと言ってよい.
とかくに作法というものは難しい.
本書の中でも,同じように思えることを作法といったり言わなかったり,反対のように思えることを作法であると書いたりしてあることがある.
その上,作法なんて,守り過ぎてはいけないとも書いてある.
万人に共通な作法というものはない.
生きていく中で身につけるものである.
身につけた作法が,社会に合えば行き易く,そうでなければ生き難い.
数学にまつわる作法には,他の分野でよりも比較的標準的なものがあって,それを外すと数学世界の中では行きにくい.
しかし,標準的でない,自分独自の作法を作り,それを遵守しながら,数学の世界をみごとに生きている人もいる.
大切なのは自分の「作法」を作ることだ.
うまくいかないことに気がつけば,改めればよい.
本書の中でさまざまな作法にぶつかりながら,自分なりの作法を作り上げてほしい.
そして,その作った作法を引っ提げて,学問の入り口まで行ってみることにしよう.
蟹江 幸博
トップ へ